原田酒造の沿革
原田徳右ヱ門により創業
会社登記により社名を原田酒造合資会社とする
伊勢湾台風により酒蔵損壊、現在地に移転
知多の歴史と風土
創業安政二年(1855年)に原田徳右ヱ門により創業しました原田酒造。
そのころ我が国では、1853年のペリー黒船来航があり、鎖国の状況から広く世界に向けて開けていった時代です。
江戸幕府の力が次第に衰え、新しい時代を目指した志士たちの活躍により、明治の新時代へと進み行こうとしていました。
愛知県の知多半島は、西に伊勢湾、東に三河湾に面した南北に長い半島です。 その半島の付け根あたりに東浦町があります。
東浦町は東に【衣が浦】(ころもがうら)という湾を望み温暖な土地柄ですが、冬には伊吹おろしにより寒暖が激しく、酒造りに適した気候の土地柄であります。
この南北に長い知多半島の中心部は小高い山が走っていて、小さな河川が何本も流れています。これらの河川の伏流水が酒造りに必要な豊富な水の恵みを与えてくれました。
気候と水の恵まれた環境からも、知多半島の醸造の歴史をうかがうことかできます。
知多半島は今では蔵の数が少なくなりましたが、江戸時代は上方と江戸の中間地として海上交通の要所として栄えました。
そのころ江戸では、知多半島の酒は上方と江戸の中間地という意味から『中国酒』と呼ばれ、もてはやされ“下り酒”として江戸時代から明治中期にかけて灘に次ぐ生産地として繁栄した地域でした。
“くだらない物”という言葉にもあるように江戸に下る物が重宝された時代でもありました。
神話にも語られる生路井の水
原田酒造のある東浦町生路(いくじ)に伝わる、日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの井戸『生道井』。その伝説をご紹介します。
むかし、日本の国がまだ統一されていなくて、東国地方で、大和朝廷に、刃向かう賊軍が勢力をふるっていたころの話です。
景行天皇(けいこうてんのう)の命令で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の賊を征伐に出かけました。途中、尾張氏(おわりし)のもとにしばらく留まって、東征軍(とうせいぐん)の兵力を整えていた時、命は、兵を引きつれて狩りに出られました。
暑い夏の昼さがり、生路(いくじ)の里を通りかかりましたが、あまりの暑さで、一行ののどがからからにかわいてしまいました。
「水が飲みたい。どこかに井戸はないか。」命が、土地の者にたずねました。
「ここは、ご覧の通りの海辺の村で、これだけ大勢のお方に一度にお飲みいただくような井戸は、ございませんが‥‥‥。」
村人は、気の毒そうに答えました。
困った命があたりを見わたしますと、山のふもとの崖の下に大きな岩があって、その下がしめってこけむしているところがありました。命が近寄って弓のはずを「えいっ」とばかりに突き立てますと、そこから冷たい清水がこんこんと湧き出し、たちまち泉が出来てしまいました。
「おお、水だ、水だ。」
「命のお力のなんと偉大なことか。」
「ありがたいことだ。」
「冷たくて、おいしい水だ。」
兵士たちは、命の不思議な力に驚き、命を口々にほめそやしながら、喜んでその水でのどをうるおしました。
その後、この泉は、「生路井」(いくじい)と呼ばれて、村人の飲み水として、あるいは酒づくりの水として利用されてきましたが、不思議なことに、心の良くない人がこの水を汲もうとしますと、たちまち濁ってしまったといいます。そこで人々は、この井戸を神の井戸として大切にまつりました。
今、すっかりかれてしまったのは、かなしいことです。
愛知県知多郡東浦町発行の「ひがしうらの民話」より